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紀伊の城【尾崎城・松山城・岡山城】
南北朝時代から戦国時代にかけて和歌山県橋本市(合併後の旧高野口町を含む)にあった「幻の城」。
橋本市に多くの城があったのは、豪族・隅田一族や、織田信長に狙われた高野勢が、防備を凝らしたためです。
今回は、橋本地域に伝わる隅田党の「尾崎城」「岡山城」と織田信長の家臣松山重治(新介)が築いた「松山城」をセットにしました。
※堺出身の松山重治は三好家の没落後は、織田信長に仕え、天正10年(1582年)1月の高野山攻めに参加している。この時、伊都郡内に多和城を築いた。その後の消息は不明であるが、『紀伊続風土記』が記す伝承によれば、重治、あるいはその息子は藤堂高虎に仕え、粉河村(現和歌山県紀の川市)に移った。恐らく豊臣秀吉による畿内直轄化に伴って河内の所領から追われ、高野山攻めの実績から豊臣秀長の紀伊入部に従ったのだろう。
高野山攻めの天正10年(1582)の段階で重治は70歳前後に達していたと見られ、その後10年以内に天寿を全うしたのではないか。子孫は鈴木名字に改めて粉河村に居住し続け、地元の名士として続いて行った。